川上幼稚園・改田陽子先生のお話

2016年のはじめ、川上幼稚園の26代目園長である改田陽子先生に、
卒園アルバムのためにインタビューし、ご自身のこと、幼稚園の歩み、
居心地のよい幼稚園にいたる道のりなど、ざまざまなお話を伺いました。
公開の許可を得ましたので、ここで共有させていただきます。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
川上幼稚園園舎(W.M.ヴォーリズ設計・石井和浩改修設計・永森貴登撮影)

先生は金沢のご出身ですか。
そうです。金沢生まれ金沢育ち。泉野小学校を出てるんです。近い
の。だから、ほんとは遠くへお嫁に行きたかったですね(笑)。

ご両親が幼稚園の先生というわけでもないんですか。
ないんです。どこでどうなったんでしょうねえ。

小さいときからこどもがお好きだったとか?
うーん、そんなこともないし。私自身の保育園の思い出は、すごく
おとなしい子で、保育園でお昼寝もできない子。とってもおとなし
かったんですって。あはははは。いまじゃ「えっ?」って言われそ
うですけど。

他に覚えていることはありますか。
それが全然覚えてないんです。記憶力は悪かったみたい。いまだに
そうですけど。すぐ忘れるところがいいところ。あんまり覚えてな
いんです。でも、ここぞというときには大事なことだけパッと思い
出せる。提出しなきゃいけない書類なんかも、ギリギリの線で思い
出すことがよくありますね。それはたいしたもんかな、と自分でも
思っています(笑)。

どんなきっかけで先生になられたのでしょうか。
小学校の先生になろうと思って大学の教育学部を受験したんですが
落ちてしまい、幼稚園もいいかなと思ったのがきっかけでしょうか。
当時は北陸学院短大に幼稚園教員免許を取れる学科がありましたの
で、そこに入りました。いまの大学は学部も多くなり専攻もさまざ
まなので、幼稚園の先生になりたいという人はすごく少ないですが、
卒業したら幼稚園や保育園の先生か養護教員になるのが当たり前と
いう時代でした。私は二十歳で卒業して就職したのがここ、川上幼
稚園だったんです。でも就職して2年目には結婚して辞めてしまい
ました。

おっちゃん先生とはどこで知り合われたんですか。
お花を習っていたのですが、そのお花の先生の息子だったんです。
義母が草月流の師範、義父はボーイスカウトをやっていて、そのお
手伝いもさせてもらっていました。だから、本人を知る前にそのご
両親を知っていたんですね。それで、お嫁に来ないかという話にな
り……。夫(=おっちゃん先生、現在は園バスの運転手などをつと
める)は東京で仕事をしていたので、結婚して東京に行きました。
そんなわけで川上幼稚園には2年しかいなかったんですが、2年間
本当に楽しかったですね。年少1クラス、年中2クラス、年長2ク
ラス、全部で5クラスで100人ぐらいいました。昭和50年代で、な
にもしなくても子どもが集まる時代でした。当時の園長は、2代前
の早水先生。八十数歳までここにおられたんです。いまの川上文庫
の部屋を事務室として使っていて、園長先生が窓際に座られ、他に
5人の先生がいました。お昼にはみんなでよくラーメンを食べまし
たね。食べ終わると、園長先生が窓から残った汁をジャーッと捨て
ていた思い出があります(笑)。懐かしいですね。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
おっちゃん先生と改田陽子(かいでんようこ)園長

東京には長くおられたんですか。
長くいるはずだったんですが、結局2年しかいませんでした。義父
が心臓を患い、金沢に帰ってきました。子どもがすこし大きくなっ
たときに、「もう一度幼児教育をしたい」と思って探したら、ここ
が空いていたんです。導きですね。1代前の中村園長先生の時代で、
私は30過ぎぐらいのときでしょうか。そこからずーっと川上です。
ここしか知らないんです。平成元年に入ったので、もう27年も経つ
んですね。

いまのような園ではなかったんでしょうか。
いまみたいではありません。厳しかったです(笑)。中村園長先生
も厳しい方でしたので。昔の先生はみんな怖かったですけどね。い
わゆるハンディを背負った子もいなかったから、きちんとできたん
でしょうね。いまのような自由さはなく、こんなに走っている子も
いませんでした(笑)。みんなできちんと並んでトイレに行き、き
ちんと並んでお部屋に戻る。みんなで一緒にキチッキチッキチッ。
お片づけのときに園庭で遊んでいる子がいたら、つまんで引っ張っ
て。お礼拝のときはきちっとお祈り。ちょっとでも動こうものなら
ピシッ!

当時の園長先生のお考えで?
そうでしょうね。当時の主流でもありました。でも、不思議とみん
なできていましたね。いま思えば、させられていたんでしょうね。
トイレのスリッパもいつもピシッと並んでいて。園長先生の姿が見
えないと思うと、必ず掃除されていました。私たちにはなにも言わ
れないんです。言われないからなお怖いんですが(笑)。でも、い
ま思うと、掃除は場を清めるので、よい気が流れますよね。清潔感
のあるきれいなところは気持ちがいいですし、子どもたちにそうい
う場所を提供していたんだな、と。その頃は全然分からなかったけ
れど、いま振り返ると思いますね。とにかくマメな方で、プログラ
ムなんかもすごく凝っていました。ピンセットで細かく貼って作ら
れて。お見事でしたよ。歴代のプログラムは全部取ってあります。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
若かりし日の改田先生(左)、鬼防先生(中)、中村前園長先生(右)

あまり言葉にされない方だったんですか。
言葉になさらない。こうしてああして、っていうのは聞いたことが
ないです。それこそ背中を見て覚えました。そのかわり書類などは
見ればわかるように全てきちんと残されました。厳しかったけれど、
いま思えば本当にいろいろと教えられたなあ、と思いますね。保育
の仕事も職人気質みたいなところがありますし、言葉では伝えづら
いものがあったんでしょうね。小学校のように決められたカリキュ
ラムがあるわけではないので、教育要領に則った園の方針と先生ひ
とりひとりの手腕に任せられています。その感覚は、子どもたちと
通じることで、経験のなかで鍛えられ、自然と身についていく。教
えられたものじゃなく、子どもから、この環境から、学ばせていた
だいたものなんですね。

園長先生になられたのはいつごろですか。
園長になったのは、中村先生が60歳の定年でスパンと辞められたと
きなので、2003年ですね。「あなた、園長して」って言われて、
「えっ!」って感じで。なんの引き継ぎもなく、ポンっと。戻って
きた平成元年には園児は50人ぐらい。1990年に園バスを持ったら、
いっきに園児が増えました。でも、それも長くは続きませんでした。
3年、5年と経つとどんどん減ってきて、どうなるかと思いました。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
最初の園バス

すぐに改革されていかれたんですか。
まずは真似から始めました。幼稚園だけでなく他の業界のことでも、
いいことは真似をしてみようと。長町に木の花幼稚園という幼稚園
があるんですが、そこのいまの鮎川園長先生が大学生の頃、(中村
園長先生時代の)川上幼稚園に実習生として来られたんです。その
ときに、「こんな先生がいるんだ!」と感化を受けました。なんか
変わった方だったんですよ(笑)。すごく発想豊かで、イマジネー
ションがどんどん溢れていくような、面白い方だったので、木の花
幼稚園に興味を持ちました。
それで、園長になってから、木の花幼稚園を見学させてもらったら、
もうびっくりしたんです。「えー、なんで子どもたちがこんなにの
びのびしてるの!?」、「なんでこんなに自由でいいの!?」って。
そこにいた先生に訊いてみたら、「私たちは子どもを信じてますか
ら」っておっしゃったんですね。その言葉がすごく印象に残ってい
ます。言われたときは、「えっ、私たちだって信じてるのにな……」
って思ったんですが、違ってたんですね。子どもを信じるというこ
とは、子どもの持っているものをそのまま信じて、それを子どもが
発揮できるように、できることは教師がする。でも、してあげられ
ることって、なんにもないんです。「環境だけ整えてあげれば、子
どもは自ら伸びるんだよ」ということをあのとき言われたんじゃな
いかと、いまになってようやくわかります。
当時、川上幼稚園の園児を見ていて、「練習ではあんなに上手にで
きるのに、なんで本番ではおどおどしたり、声が小さくなったりす
るんだろう?」って、園長になる前からずっと思っていたんです。
「なぜかなあ。どうしたら子どもがのびのびと表現できるようにな
るのかなあ」ということが常に頭にありました。そんなときに木の
花幼稚園の子どもたちを見て「これだ!」と。「はぁー、こんなに
自由でいいんだ。そのなかから自発性がでてくるのかもしれないな」
と思い、すこしずつ真似しようと思いました。

木の花幼稚園はもともとそんな園風なんですか。
そうなんです。鮎川先生が実習されたときの木の花幼稚園の園長先
生は大井佳子先生。いまは北陸学院大学のこども教育学科の教授で
すが、この先生にも大変感化されました。それで、園長になったと
きにね、「どんなお子さんでもお受けしよう!」と決心しました。
園児も少ないときでしたし、もちろん神様にはみんなよしとされて
いますしね。それを掲げてから、いろんなお友だちが来てくれるよ
うになりました。実は中村園長先生のときにも、おひとりだけ自閉
症のお友だちを受け入れたことがあるんですが、その子は年少の1
年だけで辞めて施設に行かれたんです。お母さんが、「この子はこ
こにいてはいけない。いると本人も辛いし、私もつらい」と思われ
たのではないかと。そのお子さんのこともずっと頭にありました。

幼稚園は変わってきましたか。
どんどん変わっていきました。どんどん変わっていって、最初の3
年間は保護者から叩かれ続けました(笑)。「きちんとしてない」、
「前の園と違う」って。制服のスモッグもやめ、ズックも履かなく
ていいことにしました。「履きたい子は履けばいいし、自分で選び
ましょう」と。そしたら、「そんないいかげんなことで大丈夫か」
って。「いままではきちんとしていたのに、いつ来てもトイレのス
リッパがぐちゃぐちゃだ」とかね。3年間泣きましたね。悩みなが
ら、でもこれでいいんだと思いながら。いろんなことがありました。
あるときは、「先生、ズックはちゃんと履かせてください。でない
と小学校に行ったら履けない子になります」と心配されたお母さん
に言われました。私は、「子どもが自分で選んで、履かなきゃいけ
ないと思ったら履けばいいと思うんです」と言いました。それでも
理解はしていただけなかったのですが、そのときにその子が、「お
母さん、大丈夫。小学校に行ったらちゃんと履くから」と言ったん
です。それを聞いてお母さんも分かってくださいました。そうやっ
て、ひとつひとつ理解を求めていったんです。それから、「アレル
ギーのお子さんもご相談くださいね」ということも言い始めました。

すこしずつ変わっていったんですね。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、変わっていきました。そのうち牛乳
もやめました。牛乳屋さんには嫌がられましたね。大量だったから
ねえ、申し訳なかったけど、やめました。

どういったきっかけでやめられたんですか。
うちの子どもがアレルギーで、小さいときに喘息がひどかったので、
自分なりに本を読んだりして勉強するなかで、食べ物が関係してい
るんじゃないかなあと思ったんです。また、お母さん方がいろんな
情報を教えてくださいました。最初はパンだったかな。当時は、ほ
ぼお弁当で週に一度の給食がパンでした。サンドイッチや焼きそば
パンなどの調理パンを食べて、乳酸飲料を飲んで、それをとくにお
かしいとは思ってなかったんです。そしたら、あるお母さんに「調
理パンをやめたらいいんじゃないですか」と言われたんですね。そ
れで、(近所にヴェッロさんができるまでは)泉ヶ丘のTANEさん
からパンを取り始めました。また他の方からは、「牛乳をやめた分、
その牛乳代をカルシウムを摂れるおやつにしてもらえないか」と言
われました。そうやって、保護者の方々が、とりわけ食に関して、
「これいいんじゃない?」「あれいいんじゃない?」って言ってく
ださったので、「それはいいね」とやっているうちに、すこしずつ
変わってきました。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー

お礼拝のときも、どうしてもじっと座っていられない子たちにまで、
「こうしなくてはダメ!」と言わないようにしました。その子たち
にも「いまみんなでお礼拝しているんだよ」ということは伝えるけ
れど、無理やりさせることはしない。そうすると、お礼拝のときに
その子たちがふらふらと出て来ても、みんな気にしなくなるんです
ね。この子はこういう子なんだから認めて受け入れる、というふう
に周りの子たちも成長してきた。それで、「ああ、これでいいんだ」
と。すこしずつ、すこしずつね。
なかでも一番私たちの心を強くしてくれたのは、ハンディを背負っ
た子。すごく励まされ、教えられました。生死に関わる病気で酸素
ボンベ持参で登園していた子もいました。その子のお母さんは、2
階の畳の部屋で一日中過ごされていたので、「そうだ、お母さんも
手伝ってくれない?」と言って、お汁を手伝ってもらったり、絵本
の整理をしてもらったり。そうやってすこしずつお母さん方にも園
のお手伝いをしてもらうようになると、お母さん方も生き生きして
くるんですね。居場所ができるのかな。
その子は手術の後遺症で泣いたら息が止まるので、「先生、○○ちゃ
ん倒れてる!」って誰かが叫ぶと、みんなでバーっと駆けつけて、
酸素を当てて、「○○ちゃん!○○ちゃん!」ってゆすると息を吹
き返すんです。そういうことが何度もありました。でも通われた2
年間、救急車を呼ぶことは一度もありませんでした。その子をお受
けするとき、園医の横井先生にも相談したら、「いいんじゃない。
なにかあったら僕も飛んで行くから」って言ってくださって。そん
な影の応援団がいてくれたのが、すごくありがたかったですね。当
時いらした(その後、長町幼稚園の園長先生になられた)鬼防先生
に相談したときには、「そうやね、先生、祈れば大丈夫なんじゃな
い?」と言ってくれて、それも大きな決め手になりました。そのふ
たりに後押しされて、「ようし、お受けしよう」と。そういう方々
にすごく強くしてもらいました。
スタッフの先生方にも恵まれたので、みんなで協力体制がとれまし
た。また、今小学4年生で、すこし前まではひとりで学校に行けな
かったお子さんですが、学校から「お母さんいつまでも甘やかして
はダメですよ」ってしょっちゅう言われていたそうです。でも、お
母さんはその子を信じておられたから、「時期が来たら、この子は
必ずちゃんとひとり立ちしますから、待ってください」と先生に言
い続けたんですって。そしたら4年生になって、ある日突然、「お
母さん、もういい」とひとりで行き出したそうです。そして、その
お母さんは、そうやって信じて待つことを「ここで学んだんです」
と言ってくださったんです。幼稚園での経験があったから待てたと。
本当にうれしかったですね。お母さんと泣きました。たんぽぽ組の
ときは、誰も入らないようにロッカーで囲んでその子のコーナーを
作りました。周りの子どもも保護者も理解してくれたのでできまし
た。そういうことを積み重ねてこれたのが、宝だなと思います。そ
ういう方々がこの園を育ててくれ、私たちを育ててくれました。本
当にありがたいことです。
もうひとり、療育センターからは「ストレスがたまるから幼稚園に
行ってはいけません」と言われていた子もいました。けれどもお母
さんは、「でも、集団生活に合わせられなかったら、この子はどう
なるんですか」と、必死な思いでここに連れて来られたんです。彼
のときもみんなで泣きましたね。良かれと思ってしたことがすべて
裏目に出るので、「もうなにもしないでおきましょう」と。でも、
それがかえってよかったんです。つまり、それまではやりすぎてい
たんでしょうね。「だいじにする」ということを、声をかけたり話
しかけたりすることだと勘違いしていたので、「見えるところでは
なく、見えないところで支え、だいじにする」ということを彼から
学んだような気がします。
そして今は、昔と違い、療育センターとも協力体制がとれるように
なりました。これもすごい進歩です。一番いいのは、どの子にとっ
ても居心地のよい場所だということ。どの子にとっても、どの先生
にとっても、どの親御さんにとっても。「居心地がいい」っていう
のは、ひとつのキーワードですね。居心地よくするには、どんな環
境を設定すればいいのか追求しています。すこしずつ手応えはあっ
て、確立してきた気はします。おかげさまでね。
保護者会の送別会のときに、「こんなに自分を出せた幼稚園ははじ
めてです」と涙を流されたお母さんもおられました。「今までの幼
稚園では仮面を被っていて、怖くて自分を出せなかったんですが、
ここでは本音で話せました」って。それもうれしかったですね。保
護者会の活動も、やりたい人がやりたいときにやることにしよう、
ってお願いしたんです。やりたくない人はそっとしておいてあげる。
それぞれの立場を尊重して、認めてあげれば、きっと居心地がよく
なる。違うことを非難したり批判したりしないで、違っているのが
当たり前、そのままでいい、ということをなにごとにも当てはめて
いけばよいのではないかと思っています。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー

園舎がウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計というのも金沢では唯一ですね。
まだ私が園長になる前、園の90周年のお祝いのときにはじめてヴォ
ーリズさんの名前が出てきて、私たちもそこではじめて知りました。
それまでは申し訳ないほどなにも知らずに園舎を使っていました。
2010年に、幼稚園の100周年のお祝いのとき、100年間ここにつな
がってきた人々に感謝の気持ちを伝えたいと思い、ヴォーリズさん
のことも讃えたいと思いました。忘れもしません、2009年のバザー
の代休日が、近江八幡で開催されていたヴォーリズ展の最終日だっ
たんです。それで先生方みんなで行ってきました。鳥肌が立つぐら
い感動し、ヴォーリズ建築もできる限り見てきました。そこで、石
井和浩さんという建築家に出会ったんです。石井さんに園の話をし、
「一粒社には設計したという記録はあるようですが、園にはなんの
記録も残っていなくて言い伝えだけなんです」という話をしました。
その年のゴールデンウィークに石井さんが幼稚園を訪ねてくださり、
ヴォーリズさんのお話を聞かせてくださいました。「これはぜひみ
んなにも聞いてもらいたい!」と思い、急遽記念講演をお願いしま
した。その記事が新聞に載り、ここがヴォーリズ建築だということ
が金沢でも知れ渡るようになりました。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
2010年10月「創立100周年記念礼拝・感謝会」

講演の後も石井さんとはずっとご縁があったのですが、あるとき、
「耐震補強工事はしないんですか」と言われました。「補助金を申
請したら?」と。ただ、当時、文科省は木造の建物には耐震補強の
補助金は出さないと言っていたんです。でも、たまたま別の用事で
文科省に電話をしたときに何気なく「木造だから補助は出ないんで
すよね」と言ったら、「今年度から木造もOKになりましたよ」と
言われて、「えー!」と。それで石川県に電話してみたら、「もう
いっぱいですよ」。「そうですよね。では来年度にやりたいです」
とお伝えしていたら、年末に県から電話がかかってきて、「予算が
まだあるので、耐震補強しませんか」と。でも、年度内だから3月
までに終えなくてはならない。理事長には「無理やろ」と言われ、
でも石井さんに相談したら、「できますよ!やりましょう!」って。
それで石井さんがガーッと動いてくださって、近江八幡から何度も
通ってくださり、理事長は反対しましたが、「園長のあんたが責任
取るならやれ」と。それで、「わかりました、責任取ります!」と。
今思うとよく言ったなと思いますけど(笑)。その後は県とのやり
とりなども、石井さんが全部やってくださいました。すぐに改修設
計をしてくださって、工事に入り、園児はまだ40人ぐらいだったの
で、2階で保育して、卒園式は教会でしました。なんとか3/31に引
き渡しとなり、遊具もなにも入っていない状態の幼稚園は、大正ロ
マンを感じるサロンのようでした。はじめてピアノを弾いたときは
すごく響いて感動しましたね。5年前のことです。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
内装の改修を重ねる前の園舎

2013年度の卒園児は12人でした。12の小学校に行きました。お母
さん方も、それを分かっていながらよく通わせてくれたなと思いま
す。あるお母さんに「うちの子ひとりで小学校にあがっても大丈夫
ですか」と訊かれ、「それも成長の糧になると思いますよ」と答え
ました。でも、そこであらためて、「ここを卒園して、ひとりで大
きな世界に行っても、やっていける子どもに成長するにはどうした
らいいか」と考えるようになりました。自分からお友だちに「遊ぼ
う」って声をかけられるに越したことはない。でも、みんながみん
な積極的になるのは無理だから、「別に消極的でもいいんじゃない
の?」と思ったんです。私自身も小さいときは積極性がなかったで
すし。そうすると、たとえば、ちーんと座っていても、「ねえ、遊
ぼう」って声をかけてもらえる子になる、という道もあるわけです。
消極的であっても存在感のある子になるにはどうしたらよいのか、
どういう保育にして、どういう環境にしてあげればいいのか、と考
えるようになりました。毎回ひとつひとつ課題をいただいているん
でしょうね。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
内装の改修を重ねる前の園舎でのページェント(キリスト降誕劇)

そんないろんなことの積み重ねで今があります。耐震補強工事がで
きたのも奇跡だったし、認定こども園になったのもそう。「奇跡は
本当に起きるんやな、奇跡が起こりうる幼稚園なんやな」と思いま
す。別の言葉で言うと、「神様は生きておられる」ということです。
「神様は生きておられるし、ちゃんと導いてくださっているから、
なんにも心配することはないんだ」と。細かいことでは毎日一喜一
憂しますが、いつでもちゃんと手を差し伸べてくれる人がいる。こ
れからは幼稚園の質ももっと上げていきたいと思っています。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー

耐震補強工事をした頃から、園児が増えはじめ、いろんなことが変
わってきました。この園のために身を粉にして働いてくださった建
築家の石井さんは、2015年12月に54歳で亡くなられました。本当
に悲しかったですね。この方のおかげで耐震補強もできましたし、
認定こども園になるときも、わざわざいらして園舎や園庭の図面を
測り直してくださるなど、後押しをしてくださいました。石井さん
への感謝を忘れずにいたいと思います。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
園舎の耐震補強の改修設計をしてくださった
石井建築設計事務所の石井和浩さん

それから、宣教師の方々への感謝も。この100年のあいだに、園長
は私で26代目なんです。それぐらい入れ替わり立ち替わり宣教師の
方々が金沢に来られ、尽力されていった。園のルーツでもあります。
そのことをいつでも思い出せるようにまとめられたら。石井さんと
宣教師の方々を讃えるものを作って110周年を迎えられたら。それ
まではここにおらせていただけたら、と思っています。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
宣教師でもある10代目コールベック園長。

私たちのこれからの支えになるような聖書の言葉をいただけないでしょうか。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝
しなさい」(テサロニケ1 5:16〜18)。この聖句の言葉が一番好
きです。小学校は空気が違うし、子どももそれを感じると思います。
でも成長するにはそれも味わわなくてはいけないものだろうから、
前向きに受け取ってよい解釈をできればいいですよね。川上幼稚園
は居心地がいいけれど、一歩外に出たらさまざまな人がおられるか
ら、居心地のよくない場所もあると思うんです。でも、子どもたち
も親御さんも、すべてを安心して、歩まれたらいいと思います。子
どもは大丈夫です! 柔軟ですから。小学校に行ったら小学校に染ま
りますから(笑)。でも、この土台は消えるものではないので、そ
れは確信して、ときには思い出してほしいし、思い出せなくても、
体に染み付いていますから、心の奥底に植わっていますから、大丈
夫ですよ。
それからもうひとつ、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝
である」(ヨハネ15:5)という言葉。簡単に言うと、「枝はそれぞ
れ自分たち。ぶどうの木に栄養をくださるのは神様。枝につながっ
ていれば、ちゃんと実を結びますよ」という意味の聖句です。神様
は見捨てません。どんな人にもいつでもノックしてくださっていま
す。それに応えるかどうかはこちら次第。私たちはぶどうの木の枝
で、神様によって一本にされています。そのことをときに思い出さ
れるのもいいんじゃないでしょうか。これからもいつでも幼稚園に
いらしてください。

川上幼稚園 改田陽子園長インタビュー
川上幼稚園園庭 写真:永森貴登(ながもりいと)
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